摩擦,ひと筆.

摩擦です。暇な時に書きます。

§5「安部公房をよむ 寓喩の底知れぬ魅力とその感じ方について」

0 こんなことがあった

 だいぶん昔、もう僕たちが中学校三年だったころまで遡るのだが、国語科教員が安部公房の『鞄』を引っ張って僕たちに読ませてくれた。いま思うとそこまで中学校三年のことは遠い過去ではなく、それでは記憶の隔たり具合というのは特定の出来事という節目によるものが鍵を握り、体感の(というよりそう規定して計っている)「時間」の単なる足し引きではない。また、その高校時点のいまから見れば、『鞄』は教育上は高等学校の現代文の教科書に載せられている文章であったので、何か当時の僕は年不相応に文章に対面してしまったような、そんな恥ずかしさが湧き上がってくるのだ。もちろん人間の精神性の追究や自分の独特な感性の露出を楽しもうというのではなく、ここではその『鞄』について存分に語り、自己満足を得たい。文章を読んでいないという読者の方も、ぜひ読んでみて欲しい。ところで、おそらくは関係ないが、僕は最近国語の成績が低迷している。が、当時の僕の国語力は確実に上級と言えるそれであったという自負があったし、周りを見てもそう言うだろうので、この文章に関しての意見は、要らぬ敵対意識は排して素直に、気楽に読んでいただけたらと願う。ちなみに僕は蛇足が好きな方なのでまた書くが、僕は素直にとか気楽にとか読者に強いて保険をかける行為が嫌いだ。


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1  「鞄」の扱い方からみる

 この短編の登場人物は「私」と妙に素直でどこか異質な「青年」の二人だけである。が、その二人のやり取りや仕草だけでもかなり多くの情報が獲得できるので、ここを出発点としたい。まず目が離せないのは青年の「ただ歩いている分には、楽に運べるのですが、ちょっとでも急な坂だとか階段のある道にさしかかると、もう駄目なんです。おかげで、選ぶことのできる道が、おのずから制約されてしまうわけですね。鞄の重さが、僕の行き先を決めてしまうのです。」初めて鞄についての言及があったシーンである。鞄は重いし、それを本人が実感できることも確かであり、鞄を持つことで青年は行くあてがコントロールされているわけである。

 「鞄を手放すなんて、そんな、あり得ない仮説を立ててみても始まらないでしょう。」「無理なんかしていません。あくまでも自発的にやっていることです。やめようと思えば、いつだってやめられるからこそ、やめないのです。強制されてこんなばかなことができるものですか。」と青年は続ける。どうも青年は寧ろ鞄が自分をコントロールされることを望んでおりそして鞄は自分に「ついて回る」らしい。かつ、変なネット書評ばかり読んでいるとこれが考慮されたものは著しく少なく、見落とす羽目となってしまうところなのだが、青年は「外的圧力により鞄をわざわざ持つことは馬鹿らしく、やっていられない」とも言っているのだ。自身の文章の解釈が正しいと信じている者達は都合よくこの描写だけ無きものにしようとしている気がしてならないし、辟易する。

 私の「...鞄の重さに変化がおきて、...」や、「可能性を論じているだけさ。...」に対しての青年の少し怒っているとも取れる行動からは、鞄は殆どの場合、不変であると読み取れる。

 この小説の最も重要と言って過言でないほどの描写がこの次にある。私の発言に呆れたように、「年寄りじみた」笑いを浮かべる青年の姿である。明らかに「自分が『長い間』連れて歩いた鞄のことを『私』は何も分かっていない」ことに呆れている。その前のやり取りからは、鞄が非物質(寓喩なので当たり前なのだが)であることと、こちらの方が重要だ、鞄は「職が決まれば一旦おろせる」し、「人にあずかれないもの」なのだ。ここで矛盾が生じてくる。

 私は、青年の鞄を持ち上げた。しかしそうすると「今まで自分が当たり前のように通っていた道が、鞄によると『通ってはいけない』道であった」ということに気がついた。そう捉えるのが自然であるし間違いもない。また、この後の「別に不安は感じなかった。ちゃんと鞄が私を導いてくれている。...選ぶ道がなければ、迷うこともない。私は嫌になるほど自由だった。」から、少し発想を飛躍させねばならないが、「ここに至るまでは、私は鞄を持っていなかった」⇔「私は青年と全くの別な人間としてこの文章を読まなければならない」ことが読み取れると良い、むしろ、読み取れなければならないと思う。

2 「鞄」は何か

 「鞄」とは、自分の「現代で長い人生を経たため形成された、現代人的尚且つ個人的な、安定への欲求」のことである。また安部公房は、文章の初めの方の「私」的価値観から、これを自分の道を狭めることと批判している。ここでは割愛するが、今までの記述や本文全ての解釈としてこれにより一致し、寓喩の説明として十分であり、またこれが安部公房からの問いかけに対する一人の学生がした美しい応答であることも、よければ確かめて欲しい。

3 寓喩を感じよう

3-1 寓喩はとてもいい

 同級生は寓喩についてテストで点数を取れる保証がどこにも無いとか言ってあまり好まないのだが、あそこまで自分の答えに自信が持てない文章もそうそうないという点を逆に僕は面白く思う。個人差があるのを承知で言うが、基本国語の問題は記号であれ記述であれ部分部分の理解を問う問題が、理由を今考えても仕方がないが、構造上多い。そうするとつまらないと感じる。寓喩で何かを全体を以て表そうと奮闘する筆者ないし逆に問うてくる筆者にこそ、自分が寄り添いたい、回答したいと思える。長い文字数で少ない物事を緻密に表現しようとする彼らに僕は心惹かれるのだ。

 少しでも興味が湧いたらAmazonか本屋かで別の本を調べて買って欲しいのだが、今魅力に従って話さなければいけないのは1→2へと至る抽象化の過程、言い換えるなら魅力のいただき方について、であろう。僕自身考えるに、雲を掴むような、また散らばっている例たちをーーー洗練された一概念へと昇華させる際には一つしかない。寓喩の用いられた文章を読む時は、大抵の場合これで技巧的には何とかなる、そういう意味である。

3-2 寓喩で示されるモノ・概念に対し「ある」「なし」で評価する

 寓喩自体が相当に難しいのでなければこのようなやり方は取られないはずだと信じている。一般感覚では、表現について「ある」「なし」といった、おそらくそれが表す全体におけるほんの微小な意味しか汲み取れない、間接的でまどろっこしく洗練されていない、そんな次元にまでそれを下げていく行為は遠回りすぎて、する気にもならない。おそらく普段僕たちはここまで詳細に気分といったものを言語化せず、「じかに」意味を捉えに行こうとするのだが、寓喩が相手するものとなれば、話は別であろう。それはこちら側が文全てを見渡してさえ未だに不確実性を帯びている、凡人感覚では「揺れている」とよく言われる、ものであるからだろう。日本の文学で国語のお勉強、という狭い面でしか通用しないのかもしれないが、僕は凡人が凡人たるゆえんは「相手・対象の性質お構い無しに、むやみやたらと自分を主張するだけに留まる」ことだと思っている。少し話は逸れるが、やはり寄り道というか、引き出しといったものは増やしておくに限るということは、ここで挟み込んでおきたい。さて、そこで外堀から埋めるという手段を取るわけだが、これが実際に奏功することを少々でも述べねば信頼には足らないと思うので喋ることにする。例えば先程の「鞄」については「所有者の行く末を決める力」「重さ」「所有者の辛いことを辛いと理解すること」「所有者についてまわること」は「ある」のである。決して本文にそのままアプローチしてそれをコピー、ペーストして性質の有無に分類しろと言っている訳では無いと断っておきたい。また、この「ある」性質群をこの文章が現代人批判であるという若干のコンテクストを片隅に浮かべつつ眺めていけば、「所有者の〇〇な精神構造」程度の答えにはたどり着くだろう。「なし」の性質も調べれば今回の僕の筆者への回答となることは自然なのだが、割愛する。

4 おわりに

以上で安部公房の『鞄』について基本的な解説はしたい分にはできたと思う。読者各位が快適寓喩生活を送れることを願ってやまない...。さて、ここからは僕の好きな蛇足だが、安部公房は本名が安部公房(きみふさ)であったらしい。同形異音語でものをかくとは、中々、珍しい。また、今回でこの『摩擦、一筆.』も5回目だがそれに関連して。『ジョジョの奇妙な冒険』第5部の「黄金の風」について友達から聞き視聴して見たのだが、とても面白い。精神性が当人の「スタンド」に現れるというところに少年の熱い無邪気な心はひどく踊らされてしまうのだと感じる。30話もないので気軽にNetflixなどで視聴して感想や話を共有していただけると、嬉しい。
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そしてこれは最後の蛇足なのだが、この駄文を最後まで見た人について、文を見る目がない。文字を追い意味を頭に詰め込んでいるだけで、僕のペースに飲まれ、頭の中は使い道に乏しい情報で埋まってしまったのではないか。途中で折れてしまってもいい文章だったはずだ。もっといい時間の使い道があろうと思われるので、スマホをしまい、机に向かい、勉学に励むことを怠らずに日々精進を重ねるようにすべきだと思う。