摩擦,ひと筆.

摩擦です。暇な時に書きます。

§2「校内模試,汚れつちまつた悲しみに……」

 今日、鉄緑会の高1英語の校内模試があった。あったとわざわざ言っているのだから、もちろん受けてきた。僕は高校からこの塾に世話になっている組で今回が初めての模試だったので、コウナイモシとは如何なものでしょうか、お手並み拝見いたしましょうと、そうしてテストと相対していた。

 今月に入ってからは本模試の対策にほとんどの時間を費やした。そのため試験に関してその前後に要らぬ心配も生じたが、概ね自分の実力が示せたのではないだろうか。ひとまずは模試が終わった開放感を味わいたいと思う。話を以上のことで切ってしまっても、自身が楽しむという最大の目当ては達成されている。とはいえ試験後の記事で所感を書かないのは怠惰、法度、失礼な雰囲気、そういうものがあるので、書き残しておく。

 大問1、論説文だ。この後にも物語が長文読解にあたる問題として出題されるのだが、正直なところ、どちらも緊張が勝り読めた感じさえなかった。幸いか不幸か、これらの大問はマークすなわち記号選択式の解答の体を成している。予てより友達からマークは運が絡む等々伝達されていたので、なるほどそれならば精読にしろ多読にしろしかるべき対策をして運を手繰り寄せるようにせねばと演習を積んでいた分野ではあったのだが、どうやら試験は中学校時代の英語学習の様子も見逃さず、解答用紙によく現れる作りとなっているようだった、もちろん、自分がそう感じただけのことではあるが、おそらく正しい。

 大問2、英作文だが、非常に易しく、点を配っているのだろうなと感謝した。何回も繰り返し単元を見直してきた自分がいてこそ成り立った速やかで正確さの高い作文に救われた今回の試験であったと思っている。英作文特有の、「日本語を日本語に直す」力を存分に発揮できた小問もあり、比較的波風を立てずに切り抜けることができたのではないかと思われる。

 大問4、文法問題。目を通すとテキストのままの問題ばかりが並んでいたため、寧ろ警戒を強めたが、特段引っ掛けと言える悪趣味なものがあったわけでもないので難なくパスできた。文法のテキストを何回も読むと自動的に答えを覚えてしまうのでテストとして成り立っているのかとテストの最中にあれこれ思考を巡らせそうになったが、あちらからプレゼントとしてくれるのであるから、受け取っておくことにした。

 大問5、和訳問題。大して難しくもない上に構文が見え透いていたため、とりあえず書きあげてみる作戦が奏功した。文意も通る上に構造を崩さないまま、日本語への翻訳は成功裏に終わった。感覚的には母国語が介入してくる大問に関してはずば抜けた(周りからしたら凡であるかもしれないが)成績を収めることが期待されるし、自分がそう期待される、すなわち日本語堪能人間でありたいというユートピア的な第三者視点での観測もそこには含まれている。英語試験で自分の日本語力までもが測れたような気分になることがよくあるのだが、他の人たちもそうなのだろうか?学校が始まったら聞いてみようかと思う。

 大問3、リスニング問題。最後の大問6を残してここに差し掛かったので、自分でも驚いた。聞くだけだったので何とかなっていると信じたいが、おそらく7割ほどだろう。可もなく、不可もなくでこれを乗り切れたことは、リスニング教材を0.8倍速でついていった頃、数ヶ月前の自分では信じ難い事だなと感じ、少し誇らしくなった。

 大問6、物語文。悪魔的だった。正直なところ何をどう解いたのかも怪しい、恐らく半分くらいの点数が来ているとは思うが、気楽に、ケ・セラ・セラと思う。

 テストが終わり、教室から放り出された後に同校の戦士たちが集って駄弁っているのだから、乱入しないわけにはいかない。皆の姿が見えた時は安心した。何に安心したと言われるとこれが困ってしまうところだが、試験の重圧に解放された喜びを知人と共有出来る事がなによりの安堵の対象だったのだと思う。ところが、話を聞くとやれテストの問題がこれこれだの、何点とった、リスニングの声が低いだのと試験の内容ばかり話しているので呆れてしまった。とはいえ呆れていても気持ちが上向きにーー面白くはならないので、一言「見直しは絶対にしない」と宣言して帰路に着いた。

 明後日、正確にはもう明日に、数学の同模試が待ち構えている。こちらは非受講のためいくぶんか気が楽である、が、手を抜いていい理由にならないのも悩ましいのである。己の性というのか、親の教育の賜物というのか、良心とか正義感とかいうのか、それに従うとするのならば明日も入念な対策をするべきだろうし、多分しているのだろうと思う。

 夜も遅いので§2はここで〆にしようと思う。また、最後にこの話を持ってくるのは今考えれば逆立ちだったように思うが、『汚れつちまつた悲しみに......』は中原中也の詩から、である。僕如きが中也を語るにはおこがましいし、ましてそれによって読者の中也像が屈折するに至ることも、またもちろん許容され得ないことだろうので、詩に興味がおありの方はぜひ中也を、とだけ薦めておくことにする。